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2つの椅子 パート2 [リエゾン精神看護]

こんばんは、すがなです。

今日、先週に引き続き「治療的精神看護介入法」の授業がありました。
画面に映し出されるのは、先週の場面http://blog.so-net.ne.jp/sugana/2006-09-30の続き。

自分の現在の状況を作り出している元凶が、亡くなった母親とのエピソードであったことが
女性クライエント自身が語ることによって徐々にわかってきました。
「あなたが母親ならば、あなたにどのような言葉を言いますか?」
というセラピストの導きによって、クライエントは母親の気持ちを語り・そして今度は
その言葉を聴いた彼女自身がどう思っているのかを語っていきます。

クライエント自身にとっては思いもよらない、あまりにも重過ぎる期待を
次々に課していった母親。
大きな期待を上手く実現したい、なぜなら母親から「愛していると言ってほしいから」。
しかしそれは叶わず、期待になかなか答えられない若かりし頃のクライエントは
母親の思いとは裏腹な行動をいつしかとるようになったようです。
その時の思いを語りながら、時に一筋の涙を流し続けるクライエント。
母親だけでなく、クライエント自身の中に存在していた「強い自分」と「弱い自分」の
言葉をセラピストの導きによって更に露呈していきます。

セラピストはクライエントの思いを受け止め、そこから次のステップへと進めるように
助言を加えていきました。

30分ほどして、DVD視聴終了。

教授から、
「今のやり取りの中で、彼女(=クライエント)の気持ちをあなた達はどう感じたかしら?」
ということで、学生同士でディスカッションがスタート。
しかし、私を含め学生みんなは戸惑っていました。
発せられた言葉は、なんとなく歯が浮く感じ。
なんとなく、本当の気持ちとは裏腹に少々客観的でした。
彼女のセッションをただ観察して、そこで分析をした内容ばかり。

そこで教授が一言。
「本当にそれだけしか感じなかった?みんなは彼女の気持ちをどう感じたの?
 彼女の気持ちに共感できたところは?」
その言葉を聴いて、私自身がセッションを見ていて沸き起こった感情をどう抱いていたのかを
語ってよかったことに初めて気づきました。
しかし徐々に私も含めた学生全員が沈黙。
5分くらい沈黙が続きました。
どう言えばいいんだろう・・・。

私達とは違う国の出身・生育環境で育った彼女。
ましてや一度もクライエントと面と向かって実際にお話をしたことがない。
クライエントと同じ気持ちになれたんだろうか・・・?
しかしセッションの中で、何度か・いや何度も自分の気持ちが揺れ動いたことは確かでした。

「愛しているわ」と語った、クライエントの中に住む今は亡き母親の口調は
冷酷で上から見下すような感じでした。
それを聴いた時に「ええっ、それ口ばっかりじゃないですか・・・!」と言い返したくもなり、
また「そんな冷たい『愛しているわ』なんて言い方をクライエントは望んでいなかったんじゃないか」と感じずにはいられませんでした。
身が固くなってしまうような、そして、透明なのに分厚い壁が母親とクライエントの間に
ドスンと下ろされるようなそんな感覚。
クライエントの声が母親に届かなくなるような、そんな寂しさ。
クライエントが母親から拒絶されているような、そんな身の置き所のなさ。

今まで生きてきた道のりの中で、信頼や愛情を得たい人から拒絶をされた時の、あの感覚。

このDVDを教授が見せてくださった理由を、授業終了間際に教授から語られました。
「相手の気持ちを理解したいというのであれば、まずは自分がどんな気持ちになって
 どう身体で感じているのかを理解していなければ。
 単に理論的な言葉で武装しているだけでは、到底人の気持ちなんて理解できないんですよ。
 それだけならば、この仕事をやってはいけないと思いますよ。
 看護の領域の中でも精神看護の領域をあなた達が選んできたのには、どこか心の中で
 惹かれるものが今までにあったからでしょう?
 修士で学ぶということは、ただ難しい言葉を並べて語れるようになることではないのよ。
 何か心の中で『種』を掴んでいく過程でもあるんです」

かなり厳しい言葉でした。
しかし同時に、本で書いていることや上っ面だけで援助をしてはならないことを気づかせて
くださいました。

目の前にいる人が感じた気持ちを、自分も同じような感じで感じた時の胸の高鳴り。
思わず相手と同じタイミングで「そう、その気持ちなんです!」と1トーン高い声で話し、
目と目が合う瞬間。
心の中でなにかがほどけていく瞬間。
これが共感につながった一瞬なのかもしれない。

先生、自分自身がその場にいて何を感じているのかということに気づくことの大切さを
今日学ぶことが出来ました。


2つの椅子 [リエゾン精神看護]

こんばんは、すがなです

大学院が始まって早1週間。
夏休みボケが未だに抜けません・・・。
いかんいかん、早く勉強しないと~~(><)

昨日、「治療的精神看護介入法」という授業がありました。
授業名の如く、精神看護学の中でも治療的に関わる技術を学んでいくのがこの授業のようです。
例えば精神療法、認知行動療法やSST(Social Skill Training)、リラクセーションなど。
デイケアでのお仕事の中で、家族療法やSST、リラクセーションに触れる機会が数回ありました。
しかし私はあくまでも患者さんと一緒に参加している身でして、今のところ患者さんやご家族にたいして実践している身ではないのですよ。
近い将来自分自身も実践するんだ~~ということで、しっかりお勉強していきたいと思います。

詳しい授業内容(シラバスなど)は残念ながらここで述べられませんが、
昨日受けた授業の雰囲気をちょっとだけお教えしますね。

授業中、あるDVDを見ました。
このDVDは、アメリカ心理学会監修のもの。
内容が濃いだけに、値段も高い(1本4万円以上!)。
シリーズものだそうですが、今回視聴したのは「うつ」の患者さんに対する来談者中心療法のものでした。
そこで登場したのが、題名で書いた「2つの椅子」。
やや斜めに向かい合った2つの椅子が画面に映りました。
2つの椅子の間・やや後方にもう一つ椅子が置かれているのですが、そこにセラピストが座ります。
2つの椅子は、両方ともクライアント(来訪者)が座る椅子です。

20代後半と思われる、うつの女性(現在大学院修士生、8歳の男児と2人暮らし、シングルマザー、夫とは5年前に離婚、19歳の時に交通事故で友人を亡くした経験あり)がセラピストの下に現われました。
自分は懸命に生活しているけれど、何故か虚しさばかりを感じてしまうという状況のようです。
夫の下から離れて、働きつつ子育てをしながら大学院に通っているとのこと。
ざっと聴いただけでも、頑張り屋さんの印象を受けました。

そしてセラピストが提案したのが、「2つの椅子」に交互に座って思いを語る手法でした。

まずクライアントが片方の椅子に座り、今自分の中に感じている怒りの感情を前面に置かれた
もう一つの空いた椅子に向かって吐露していました。
その空いた椅子には、もう1人の自分が座っていると思って吐露するようにと
セラピストが促しました。
胸の奥から搾り出すように・戸惑いつつ言葉を選びながら語るクライアント。

その感情を聴いたクライアント自身に、セラピストが今度は「向かいの椅子に座るように」と
促しました。
そしてその空いた椅子に座ったクライアントに対し、今の話を聴いてもう1人の自分はどう感じたのかを今度は語るようにセラピストが静かに伝えました。
そこで徐々に現われたのが、「完璧を求めるクライアント」と「そんなに完璧を求めないで欲しいと言うクライアント」。そして「自分の母親」でした。
1人のクライアントはとにかく全て完璧にこなすよう促し、そしてもう1人は「毛布の中で丸くなっていたい」と言う状況。
声の調子や身振り手振り、そして表情もかなり変わってきたクライアント。
怒りと怯えが共存している自分に気づき、その根源を辿るプロセス。
このやり取りが約30分くらい行なわれるものでした。

このDVDを見終わってから。
何とも言えない、正直クライアントの両方の感情に巻き込まれていた自分に気づきました。
そして何より、自分自身がこのクライアントのように「2つの椅子」に交互に座っていったら・・・
という妙な不安感に捕らわれました。
教授が「この療法、自分自身が受けてみたいと思う?」と学生一人ひとりに聴かれたのですが
私だけが「受けるのが怖いです。できれば受けたくない。」と答えていました。

何故怖いのか。
自分の中にいる、できれば表に出したくない他の自分と向き合うのは少々つらい。
自分の心の声を自分の声として実際に耳にするのって、パンドラの箱を開くような気がして。
その箱の中の最後に幸せが残っているのかは、誰もわからない。
その中を探ることで、今の悩みの根源がわかるのならばそれはいいことかもしれないけれど
その過程に対して私は一種の畏怖を感じました
誰を傷つけるのか。
自分だけでなく、周りの人々に対する罵詈雑言(ばりぞうごん)を次々と述べていくかもしれない。
虚飾された真の姿に気づかされて、自分も他者もトラウマとなって打ちのめされ・失望するかもしれない。

例えば、
「ふざけんじゃないよ!何グズグズしてんのよ、さっさとやんなよこのバカが!!
 だからいつまでたっても成長できないんだよ、自業自得じゃん」
なんて自分の声を自分の耳に実際に聴かせたら。

しかし不幸なだけではないのも、この療法です。
真の自分に気づき、そこから前に踏み出していく力を生み出すのもこの療法なのではないでしょうか。
自分の中に原因があるのであれば、堅い殻に閉じこもっている自分を解放してあげることができるのは自分自身なのかもしれない。
そのプロセスをいかに上手く導いていくかは、セラピストの豊かな経験と技量なのでしょうね。

とにかく生半可な気持ちでこの療法を用いるのは、専門家でないと困難極まりないでしょう。
自分自身の中の声に耳を傾けることを手助けすることの難しさを知った授業でした。

【追記】
実はこの「2つの椅子」療法のようなものを、私は以前自分に行なっていました。
過去に書いたブログ記事「私が看護師になった理由、そしてその後14 http://blog.so-net.ne.jp/sugana/2005-11-04」の後半部分でその2つの椅子が登場します。
この時私は自分の声を肉声ではなく手紙の中で表現しているのですが、これによって自分の中の悲しみにもう1人の自分が気づくことが出来ました。
自分に気づくきっかけは、やはり自分の中の声なのかもしれません。


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