So-net無料ブログ作成
My Nursing Trajectory ブログトップ
前の10件 | -

私が看護師になった理由、そしてその後 20  [My Nursing Trajectory]

こんにちは、すがなです。
とうとうこのシリーズも20回目になりました。
書き始め当初は10回シリーズとして予定していたのですが、徐々に書かねばならない内容が増えてしまいました。
このシリーズを書く事によって、改めて自分の看護と生活をめぐる10年を振り返る事が
出来ました。
いつも暖かいコメントを下さる読者の皆様、本当にありがとうございます。
さて、そんな大事な皆様に大切な御報告をすると約束した日が今日でしたね。

2005年11月26日、私はとある大学院を受験しました。
その結果が12月1日の今日、出たのです。
朝10時に学内で発表されるとの事でしたので、私は大学に向かいました。
大学編入の時は合格者発表が郵送されるのを待ち続けましたが、今回はいても立っても
いられなくて。
徐々に高まる緊張。
早く見たい、だけど落ちていたら来年1年間どうしようか・・・?

大学校舎への道のりを歩きつつ、走って見に行くべきか迷いました。
だけどここは落ち着いて、しっかりと歩いていこう。
前を向いて、歩いていこう。

大学校舎に到着。
来年ここにいられるのか、否か。
入り口を入ってすぐ右にある事務室に合格発表が貼られていました。
非常に小さい用紙で書かれた合格発表。
遠くからではとても見えません。
もっと近づいて見ないと。
掲示の前1メートルで、止まりました。

ありました!!
私の番号、ありましたよ!!!
思わずガッツポーズを右腕で小さく決めました。
今まで頑張ってきた10年が、また新しい10年を呼んで来てくれました。

旦那さんや実父、義母、予備校の先生、編入学をして今も勉強中の友人達、
同じ大学の友人に、1時間以上かけて御報告しました。
同期の編入学の友人2人が大学に来ており、喜びを分かち合ってくれました。
抱き合って喜びを分かち合う嬉しさ、これはやはり仲間だからこそ出来る事なのですね。

看護短大時代から新卒の終わり頃、人といても何故か孤独感を抱いていた自分。
自分で自分の首を絞め続けた苦しい日々。
環境を変えて地元に戻った時に迎えてくれた人々の厳しさと優しさ・暖かさ。
人と共にいて、自分らしさを取り戻していった地元の病院での職場生活。
患者さん方の痛烈な心の痛みと向き合って、時には自分もつらかった。
苦しみを分かち合う事・和らげる事の難しさを教えてくれた人々。
最愛の旦那さんとの出会い・尊敬する母との別れ。
そっと見守り、背中を押してくれたくれた職場の皆さん。
新しい出会いで見つけた新たな世界。
真に自分が看護が好きである事を再確認させてくれた大学。

私の看護は更に続きます。
10年、20年、30年、もっとそれ以上に私はおそらく看護の世界にいると思います。
いや、きっと居続けます。
小さい頃からずっと夢見た看護師。
それを支えてくださったのは、すぐ傍にいたみんなでした。
傍にいてくれたみんなに恩返しを私はこれからもしなくてはなりません。
まだ見ぬ誰かにも、きっと同じ様に出来ますように。
もしかしたら、このブログを読んで下さっている皆さんにもどこかでお会いするかもしれませんね。
人々の生活をそっと見守り、時には手を差し伸べていける看護師の仕事に、
私は誇りを持って続けていければと思います。

(了)


nice!(0)  コメント(10)  トラックバック(0) 
共通テーマ:GBA2005エッセイ

私が看護師になった理由、そしてその後 19  ~10年目;秋から現在 [My Nursing Trajectory]

こんばんは、すがなです。
とうとう来週の土曜、大学院の入試が近づいてまいりました。
一昨日私の元にやって来た受験票。緊張感が増します。
短大の時の卒業証明書・成績証明書と姓が違うため、結婚前の私と今の私が同じ
人物である事を証明する書類(つまり戸籍抄本)を取りに行ったために願書提出に
半歩遅れてスタートしたため、少々番号が遅くなりました。
今はとにかくいつものペースを崩さない生活をする事に専念しております。

2004年の秋頃から、4年次に行なう研究(私の大学ではこれをプロジェクトと呼んでいます)の
精選を始めました。
私がやりたかった領域は、相手も自分も活かすコミュニケーションについて。
これは合氣道の考えにも通じるのですが、看護にも大変重要な考え方です。
臨床時代、先輩・他の医療従事者・患者さん・御家族とお話をする機会がゴマンとありました。
中には、お互いを叩きあって両方とも傷つく事もありました。

誰かをバッシングする医療であっていいのか?
もしそうではなく、自分も相手もwin-winの関係であったらまた医療に対する考え方も
変化してくるのではないだろうか?
もう少し考えの幅を狭めて、看護師同士が上手に相手を活かせるコミュニケーションが出来れば
職場を失意のまま去る看護師が減少できるのではないだろうか?

そして2005年1月、先生の元へこの考えを持って面接しました。
リエゾンとは「連携」を意味する語だそうです。
一般の会社ではこの様な人材は殆ど存在しないかもしれませんが、
病院など医療の世界ではリエゾン看護師が実在します。
1990年代後半、専門看護師制度を日本看護協会が設立してから
リエゾン精神看護の考えが拡大していき、現在もその途上にあるようです。

相手と相手・相手と組織を結ぶ橋渡し役の看護を展開するスペシャリストの下で
是非研究をしたい。
私が今まで臨床で考えてきた事を研究で振り返りたい。
そして、大学院に進んで私の目指す専門看護師への第一段階を掴みたい。
熱意を伝え、先生から研究のOKを頂きました。

2005年春。私は28歳にして大学4年生になりました。
「研究一本・看護だけ」ではなく、実に様々な事を経験しました。
大学野球を観に行き、熱狂した事。
旦那さんと一緒に大学の夏祭りに行った事。
秋の大学祭では自分が売り子になってコーヒー売り上げ向上に努めた事。
別の学部のある校舎に行き、別の学部の教授陣の講演会を聴きに行った事。
実習先で御当地カレーを学生や先生と一緒に食べに行った事。
派遣看護師として採血業務から老人ホームでの看護業務を経験してきた事。
お隣の学部の友人と新しい電化製品のアイディアを出し合った事。
週に一回は必ず合氣道をしに行った事。
合氣道を教えてくださる大学の大先輩である方々や別の学部の友人と共に
各々の将来について語り合った事。
何故か生協のおばちゃん・おじちゃん達と話が弾む事。
同じ学部だけど年齢の違う友達とバカ話をした事。
そして最も大切な、編入仲間と一緒に買い物をしたり・夢を語ったり・
時には討論をして看護の将来を考えた事。

本当に、かけがえの無い・いとおしい貴重な時間でした。

そして、現在に至るわけです。
おそらく次回「私が看護師になった理由、そしてその後 20」で私の看護道10年の
連載一段落となります。
大学院の受験・そしてその後をお伝えできるのは12月1日の合格発表後です。
皆様に朗報をお伝えできれば、幸いです。

自分の道を信じ、力を振り絞って受験に行ってきます!


nice!(0)  コメント(9)  トラックバック(0) 
共通テーマ:GBA2005エッセイ

私が看護師になった理由、そしてその後 18 ~10年目;春から夏 [My Nursing Trajectory]

こんばんは、すがなです。
今日は水曜・合気道の授業の日。
だけどその前に卒論のデータをいじらなければならず、イライラ。
データをいじっていると自分の予想外の結果が出てきてまたイライラ。
はっ、考えてみたら合気道も卒論も統計ソフトをいじる事も大学に入らなかったら
出来なかった事だ・・・!
大学の友人達も、大学の先生方も大学に入らなかったら一生会えなかった人たちなんだ・・・。
そう、大学に改めて入る事で見えなかったものが沢山あったんだ・・・。

2004年4月、大学編入した私は毎日が楽しくて楽しくてしょうがありませんでした。
大学の最寄の駅の改札を出る時、何故か心踊るのです。
何か新しい事が始まる。
何か今まで知らなかった事に出会う事が出来る。
看護師だけではない、主婦だけではない、また違う自分になれる。
新しい自分に出会える気がして。
短大時代や新卒時代の苦しくもがいていた自分ではない、本当の自分を取り戻せる気がして。

看護系学部に編入しているため、当然看護の基礎をもう一度お勉強するのですが
私の通う大学はそれだけではありませんでした。
ボーダーレスになりつつある医療や看護の世界を、もっと広い視野で見られるような
授業の配慮がありました。
学ぼうと思えば看護学生でも政治も情報科学も法律も福祉も学ぶ事が出来る、そんな大学です。
だからこそ選んだこの大学。
出来る限り知らない世界を知ろうと、編入直後から飛び込みました。

3年編入を果たしたお友達は14名。私を含めて全員で15名。
新卒で入った友達もいれば、臨床で数年経験を持つ友達もおります。
皆それぞれ色んな背景を持っているけれど、看護だけではなく実に自由に勉強する友達
ばかりです。
また、一般入学した学生とも触れ合う機会が多くありました。
入学してから、年齢を超え・そして学年や学部をも越えてディスカッション出来るなんて
看護の世界だけでは体験できない事でした。

新しい友人達に出会うだけでは事足りない私。
何かこの大学ならではの授業を受けたい。
もっと広い世界を見たい。
しかし金がない。
だったら奨学金!
というわけで大学から奨学金をもらい、2004年9月にイギリスへ保健医療制度について
考える研修に行って来ました。
プライベートでこの年の8月にバリへ行っているのですが、実はこれが初めての海外旅行。
この時ついついガイドさんからバリの保健事情を尋ねてしまいました。

バリ(インドネシア)とイギリス。
いずれも深い歴史と文化を湛える国です。
しかし、いずれの国も何故か看護師や医療従事者が不足し
医療が十分に受けられる状況ではないようです。
バリではHIVの感染が爆発的に増加している状況と政治不安、貧困。
イギリスでは移民が多いためにもはや英語だけでは十分な医療が行なえない事と
国で支えている保健制度(NHS;National Health Service 国民保健サービス)の改革を
行なうものの未だ国立病院にかかるのには数ヶ月待ちの状況。
海外に行く事により、日本の医療制度の素晴らしさを実感しました。

日本の医療にもまだまだ問題は山積みの状況ですが、国民皆保険(国民全員が
必ず医療保険に加入している事)とフリーアクセス(どの病院に罹っても問題ないこと。
自分の住む町の医者ではなく違う町の病院に罹っても診てもらう事について日本では規制されて
いません)が許されている国はなかなかありません。

ただ臨床で働いているだけでは・机上の学習だけでは見えなかった海外の保健医療情勢。
広い視野で見る事の大切さを、大学で改めて見つける事が出来ました。
編入の友人達も、今年までに15人中およそ10人が何らかの形で海外へ
行って医療や文化を学んできました。
このバイタリティには、自分も含めて驚かされます。
臨床を飛び出して様々な事に触れてくる事の大切さを、今も噛み締めています。




nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:GBA2005エッセイ

私が看護師になった理由、そしてその後 17 ~8年目;春から9年目;春 [My Nursing Trajectory]

こんにちは、すがなです。
昨日は大学の同期生のお誕生会があり、横浜で豪快にパーティしました☆
残念ながら、同期全員が揃わなかったのですが・・・
私にとってこの同期の友人達はこれからきっと力強く・頼もしく・自分達の思いを
叶えていくかけがえのない存在です。
この友人達とは、大学編入学をする事で少しだけ自分の人生を変えた人。
編入に至るまでの道のりは人それぞれですが、看護の勉強だけではない大学生活を
謳歌している事には違いありません。

2003年4月20日、今まで働いていた病院を退職し私は大学編入に向けて勉強を本格的に
始めました。
実はこの年の2月から看護大学編入専門予備校に通っていたのですが、激務の中で
勉強に専念するのが困難になりまして。
これからの自分の道を二足のわらじを履きながら進むのに躊躇した私。
そんな中途半端な事で大学には行けないと思い、退職を選択しました。

予備校では私と同じように将来を真っ直ぐに見つめる友人が沢山いました。
年齢はバラバラ・経験もバラバラ。
まだ短大・専門学校3年の学生さんから看護学校の先生をされていた方もおりました。
だけど気持ちはみんな編入の意欲に燃えていました。
開講から3ヶ月くらいまではみんな会話も無かった状態だったけれど、
編入座談会(大学編入を果たした学生さんからお話を直接伺う会)をきっかけに
友情が生まれました。
看護の中でも目指すものは人それぞれ・だけど色々な学部の中から看護を選んで
この予備校にやって来た友人達は、やはりこれからの看護を真剣に学びたいと
考えていました。

看護大学編入試験は、一般試験とは違い8月末から10月にかけて行なわれるのが
殆どです。
科目は主に看護学全般・小論文・英語・そして面接。
看護学は、みんな看護を専門に勉強しているため大差はつきません。
しかし小論文と英語に関しては、特に英語力は己がどれだけ勉強しているかが
顕著に現れます。
小論文も出題傾向が大学により異なります。
文章を読んで自分の考えを述べるタイプが多いのですが、文章の長さや難解さは
大学それぞれ。
また、グラフや表を読み取りそこから論述するタイプのもの・英語の文章を読んでから
論述するものなどもあります。
中には解答用紙が罫線のない白紙である大学もあり、慣れていないととても書く事が
難しいのです。

とにかく全てが侮れない出題科目。
心してかからなければいけないのです。

旦那さんから学費を出してもらうわけにはいかないので、出来るだけ学費が安くて
将来リエゾンの道に入れる大学を選ばねばと考えていた私。
結果、独立法人系の大学を2校・私立大学を1校の計3校を選択し受験しました。
どの大学も、現役高校生としての私だったらとても望める大学ではなかったけれど
編入で自分の学びたい事をその大学で掴めるのならば是非チャレンジしたい。
自分の夢を実現させるために、私は飛び込みました。

そして、とある平日の私立大学合格発表日。
この大学は千葉県には無く、大学に行くにも片道3時間を要する場所にあったため
自宅で合格発表が届くのを待っていました。
午後13時ごろ。
家でいても立ってもいられない私は、イライラを解消するためにインターネットを
しておりました。
旦那さんも会社に行っていたので、余計にイライラ・ドキドキ。

「ピンポーン」
郵便局からのレタックスが来た事がすぐわかりました。
冷静を装い、レタックスを受け取る私。
リビングに戻り、開封。
私の番号は3027番。
あるか、否か。

ありました!私の番号がありました!!
約30名中の受験者の中、合格者は15名。この中に私の番号がありました!!!
合格を決めたよ!!!
旦那さん、お母さん、叔母ちゃん、みんな、合格したよ!!!
思わず大声を上げた後、外で郵便バッグを整理していた郵便局のおじさんが
フッとうちのアパートの前を去っていくのが見えました。
おじさんどうもありがとう!!!
あなたが持ってきて下さったレタックスに私の番号がありましたよ!!!
おじさん、実は私の歓声を聞くために外で待っていてくれたんですか!!!
おじさんにも郵便局にもこれからの私にも幸あれ!!!

残念ながら、あとの2校は失敗に終わったけれど大満足です。
だって大学に合格したんですから!
予備校の友人達もそれぞれ志望校に合格を決め、祝杯を何度か挙げました。

時は流れ、2004年4月大学入学式。
大学講堂で流れていた、ワーグナー作曲;ニュルンベルグのマイスタージンガーに
耳を傾けつつ入学した実感を味わいました。
この曲は中学校時代所属していた管弦楽部で演奏し、全国優勝した思い出のある
私にとっては忘れられない曲のひとつ。
高らかに、誇らしげに歌の名手が歌い上げる華々しいオペラの前奏曲。
この曲のクライマックスで、登場回数が非常に少ないシンバル(演奏中に3発ないし4発しか
登場しません)が打つ音がこんなに快く響いたこの入学式を、今でも忘れる事が出来ません。

そして、新たな大学で新たな世界との出会いが待っていました。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:GBA2005エッセイ

私が看護師になった理由、そしてその後 16 ~8年目;初夏から9年目;春 [My Nursing Trajectory]

こんばんは、すがなです。
今日からとうとう大学院入学試験の願書受付が始まりました。
願書の志願内容をウンウン考え早2週間。
ようやく形になり、あとは提出です。
ここまで来れたのも、多くの皆様のおかげです。
また、ここまで至る事が出来たのも多くの別れがあったからこそ。
その中でも忘れられないのが、職場のスタッフの皆さんと最後に育てた後輩との別れです。

2002年初夏、病棟主任に大学編入をしたい事を伝えた私。
この時私は後輩看護師を育てている最中でした。
彼女と来年の春まで一緒に仕事したいと考え、主任とお話した結果
翌年2003年4月まで仕事をする事を決めました。

「おいすがな、お前看護師の免許持ってるのにまた看護大学に行って何をするんだ?」
「どうせ頭だけの看護師になるんでしょ?」
「すがなちゃんはなんか時々頭のいい事しか言わなくってよくわかんない(←!?そんな事は
毛頭ございませんよ!>すがな談)」
と、当時は色んなスタッフから言われました。
勉強する意義を考えつつ、皆さんにお答えしてきたのですが・・・うまく伝わったかしらと
少々心配でした。

職場にとっては人材を一人失うわけですから、独りよがりな事を言われても困るんだよと言う
お気持ちも重々承知しているつもりです。
今まで職場のみんなで乗り越えてきた多数の苦難があるからこそ、
私に苦言をおっしゃってくれているのだ。
自分が何で職場を辞めてまで大学で勉強するのか。
何かを掴んで来るまで職場には戻れないのだと言う事を肝に銘じなければ、
みんなの苦言が意味を失ってしまう。
職場の皆さんの気持ちを重く受け止め、大学・大学院に行っても皆さんが現場の大切さを
重んじている事を忘れないようにしよう。
仕事場を離れる日まで、しっかり働こうと考えました。

後輩看護師の彼女は本当に頑張り屋さんでした。
しかし、別の病院で学びたいという希望を主任に出していたようです。
彼女も私の退職時期を知り、
「すがなさんと同じ時に私も退職します!」
との事。
嬉しいやら、少し残念なような・・・。
複雑な気持ちでした。

激務の中、私が至らなかった所も多くあったのに彼女はいつも一生懸命やっていました。
○歳離れた彼女に何度も慰められたり、励ましてもらったり、彼女から多くを
教えてもらいました。
現場でもう少し一緒に仕事が出来たら、本当に良かったのにな。
彼女が今度は後輩を教えている姿を見られたら良かったのにな。
だけど自分で決めた道をお互いが進めるようにするには別れも避けられない。
それも一つの成長かもしれない。

結局、後輩は3月31日を以って・私は1ヵ月後の4月20日を以って職場を退職しました。
残念ながら同じ日に退職できませんでしたが、今はそれぞれの道を進んでおります。





nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:GBA2005エッセイ

私が看護師になった理由、そしてその後 15 ~7年目;冬から8年目初夏 [My Nursing Trajectory]

こんばんは、すがなです。
昨日の夜は雨が時折激しく降り、吐く息まで白くなっていましたね。
今日の朝はどうかな・・・と思ったら、驚きました。
美しい秋晴れに恵まれていました。
旦那さんを最寄り駅まで自動車で送る途中に遠くを見ると、頭に雪を被った
富士山がくっきりと見えましたよ。
ある日突然、目指すものが自分の目の前にはっきりと見えた瞬間に似ていました。

母の死から1週間後、私は職場に復帰しました。
随分休みを頂いてしまったので、はて職場の皆さんにどう御挨拶しようかと考えていました。
病棟に到着。
職場の皆さんはいつも通り、私を迎えてくれました。

いつも忙しい整形外科病棟。
業務も十分に整備されている状況ではなかった当時、看護師が一人でも欠けてしまうと
病棟が上手く回らなくなりそれはそれは大変でした。
しかしスタッフの皆さんはいつも気丈で明るい。
辛口コメントも時にはあるけど、やる時はやる。
仕事に集中させてくれる。
常に前を見つめる事を思い返させてくれる。
そんな人達でした。
スタッフ一人一人が本当にありがたい存在でした。

年が明けて2002年冬。
母の死のショックが少し和らいできた。そう思っていました。
業務中、何とはなしに顔面だけが紅潮する感覚に襲われました。
今までに無い経験でした。
ナースステーションが熱いわけではない。
空気の乾燥もさほどではない。
手足は冷たいのに顔だけ熱い。

また、朝礼中に気分も悪くないのに突然血の気が引くような感覚にも
襲われました。
先輩に血圧を測ってもらうと収縮期血圧(「上の血圧」と言われるものです)が70mmHg。
そんなわけないでしょ、それじゃプレショック寸前ですよと先輩にジョークを
飛ばすものの何度測っても70台。

いきなり変な汗をかくこともありました。

なんだかよくわからない症状が断続的に数ヶ月続きました。
ある深夜勤務中。
この道○十年の大先輩が、
「すがちゃん、あんた相当のストレスが今もかかっているんだね」
と一言。
この言葉を聴いて、やっとわかりました。
私は今も母の死を受け入れきれていなかったんだ、と。
そして、心と体は別物ではない・一つにつながっているから自分の心に嘘をつく事が
出来ないんだ、と。
心と体を一緒に考え、周りにいる人々と上手に付き合い支えあう仕事として
ぼんやり考えていたリエゾンナースの道が見えた気がしました。
この出来事の後、徐々に症状は消失していきました。

リエゾンナースの道を目指すには・・・。
本屋で見つけた看護雑誌の中に、そのヒントがありました。
専門看護師として働くには、まず看護師・保健師・助産師のいずれかの免許を所持している事。
大学院修士課程で専門看護師プログラムを履修・単位取得する必要がある事。
また実務経験5年以上の経験があり、そのうち専門分野で3年以上の経験を有している事。
このうち専門分野1年以上は大学院修了後の経験が必要である事。
そして日本看護協会で行われる試験にパスする必要がある事。

私は看護短大を卒業しているわけですが、いきなり大学院に行くほどの学力はありませんでした。
 *短大から大学院進学も不可能ではないのですが、大学卒業レベルを最初から問われる
   以上はそれなりの学力が必要となります。
ではどうすればいいか?
大学に編入学する必要がありました。
幸い、看護系大学の大半は3学年編入学制度を擁しているところが多く存在しておりました。
またこの時期、看護教育が大きく変遷した時期でもありました。
多くの看護短大が看護系大学の看護学部へと移行したのです。

看護系大学に編入して、大学院に行こう。
そして自分の目指すリエゾンナースになって、地域に住まう人々や働く人々の心と体が
健やかに過ごせて、お互いが信頼しあえる社会づくりのお手伝いをしたい。

2002年の初夏、私は病棟主任に進学への勉強専念を申し出ました。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:GBA2005エッセイ

私が看護師になった理由、そしてその後 14 ~7年目;冬 [My Nursing Trajectory]

こんばんは、すがなです。
私が通う大学の校舎横は現在ススキでいっぱいになっています。
柔らかでさらさらとなびくその様がまた美しいススキ。
空から見たらどう見えるんでしょうか。

2001年12月中旬のある夜。
静かに母の臨終を看取った私と旦那さんはすぐ家族へ電話をしました。
何故か涙も何も出ず、その時は非常に冷静だった事を覚えています。
つい45分ほど前に病院を後にしたばかりだった家族が再び戻ってきました。
戻ってきた時の家族の顔を見ると、姉はすすり泣いていました。
妹は目頭を指で押さえる程度でした。
父や姉の御主人(私の義理兄)は目を赤くしていました。
しかし、私は涙が出ませんでした。

「よかったね、やっと苦しいのがとれたね」

看護師として勤めている時、幾度か臨終の場に立ち会った事があります。
御家族の方々を見ると、静かに見守られる方々と
そうでなくて号泣される方々に分かれます。
家族を見送る時、私はどちらになるのだろう・・・。
前者でした。

母がこの世から去ってしまった。
悲しい。
とても悲しい。
だけど涙が出ない。
どうしてだろう。
いつの間にか看護師の仕事に染まってしまったから涙が出ないのかな。

母方の祖母へ臨終を知らせる電話をしている父の声が震えているのがわかりました。
その声が、途中で涙声に変わりました。
父が泣く姿を、私は初めて見ました。
だけど私はそれでも、涙が出ませんでした。

2日後。
通夜が営まれました。
霊前に立つ私は、まだ涙が出ませんでした。
母の職場の方々や、昔から私達家族によくして頂いていた御近所の皆さん、
私が当時勤めていた病院のスタッフの皆さんが焼香に来てくださいました。
来訪者の涙をもらい泣きする事はありました。
だけど、私自身の心から涙が流れているようには感じませんでした。
なんでだろう。

夜にお香を絶やさないようにと父から言われ、交代で霊前に香を焚きに行きました。
旦那さんと一緒に母の前に座り、しばらく静かに深夜を過ごしました。
母に初めて旦那さんを紹介した日のことを思い出しました。
確か2年前の夏、旦那さんとお付き合いを始めてまだ1ヶ月もしない頃。
私の家にうなぎを食べに来ないかと私が旦那さんを誘ったんだよな・・・。
あの時「まだ彼氏を連れてくるなんて早いわよー」と言いつつも
しっかりと旦那さんの分までうなぎ丼を準備してくれた事。
あのうなぎ、そう言えば通夜に来てくれた母の職場のお友達から注文したものだったっけか・・・?

こんな事を思い出していました。
だけど、やっぱり涙が出ませんでした。
どうしてかな。

次の日。
朝から天候に恵まれた日でした。少し雲もかかっていたけど、
12月にしてはさほど寒さを感じない日でした。
告別式にあたり、私は母に手紙を書こうと決めました。
新居で一人、食卓に座って手紙を書き始めました。
便箋を開き、ペンを手に取り、書き始めました。

・・・・・・お母さん、今はもう元気に動けるようになりましたか?

誰もいない部屋で、やっと涙がこぼれてきました。
目の前がぼやけて見えなくなるくらい涙が出てきました。
8ヶ月前、一度だけ来てくれた新居に置いている食卓に母が座っていた。
母の座っていた椅子の目の前で手紙を書いていたら、
手紙が書けなくなるくらい涙が落ちてきました。
やっと自分の心と向き合う事が出来た。
母が亡くなって悲しくてつらい自分と向かい合えた。
看護師ではない、ただの普通の家族の一員の自分にやっとなれた。
思いっきり、泣きました。

棺に手紙を入れた数時間後、母が空に帰っていきました。



nice!(3)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:GBA2005エッセイ

私が看護師になった理由、そしてその後13 ~6年目;秋から冬 [My Nursing Trajectory]

再びこんばんは、すがなです。
12の続きです。

10月へと時は流れていきました。
徐々に体力が奪われていく母。
もう一人の叔母(母の実妹)と祖母が母を見舞いに遠く九州からやって来てくれました。
叔母の娘(私の従妹)の嫁ぎ先が和牛を育てる農場であることから、二人は
少しでも美味しいものを母にと農場直産の和牛肉を差し入れしてくれました。

その時の母はもうほとんど食事を受け付けない状況でした。
味覚も0に近い状態だったようで、何を食べても砂を噛む様だといつも言っていました。
そんな母が、珍しく箸を手に取り焼肉を口にしたのです。

「わあ・・・美味しいわあ」
頬のこけた、笑顔を失いかけていた母の口元がゆっくりと動き、
目元がゆるみました。

普段何気なく食事介助を看護師はしています。
患者さんが食事を少しでも食べていただけると、こちらも嬉しくなります。
しかし家族である母がほとんど何も食べなくなった時、
私は看護師でなく普通の家族の一員に戻っていました。
どうしたらご飯を美味しいと言って食べてくれるのか。

それを、母の故郷である九州の食材が叶えてくれました。
大地からの恵が、母に生きる力を与えてくれました。
健康な時は何でもない食材と食事。
この時ほど食物のありがたみを感じたことはありませんでした。

しかし、それもつかの間でした。
11月には再び入院。
何時どんな事があってもおかしくない状態だと、父に聞きました。
そして12月上旬の深夜勤務明け。
父から電話がありました。

「お母さんが危篤状態なんだ。先生から3日前に退院していいって言われて
家に帰ったんだけど、熱で息が絶え絶えなんだ。これはいけないと思って病院に
連れて行ったら・・・敗血症だって・・・。
退院前に取った採血データを先生が見ないまま退院になって、今日そのデータを
見たら白血球が600しかなかったまま退院していたんだって・・・。
家に電話があってこれを言われた時はもうお母さんの状態が・・・。」
*正常の白血球数は約4000~9000個/μℓ

病院に駆けつけると、荒々しく息をする母が6人部屋にいました。
危篤なのに何故個室でなく6人部屋!?
疑問を持ちつつも、まだ到着していない家族を待ちました。
そして家族全員が集まった後、輸液ポンプで昇圧剤が投与されていました。
昇圧剤は血管を締め上げて血圧を上げるために、手足が一気に冷たくなる薬でもあります。
これから旅立つ人になんて痛々しい事をするんだろう・・・
看護師として勤務している時は当たり前に投与していた昇圧剤が、
この時ばかりはもう外してあげたい気持ちでした。

医師に説明を聞きました。
もう何時息が絶えてもおかしくは無い状況である事を。
部屋を個室に移して欲しい事を主任看護師に伝え、部屋を移動しました。
「いやだー・・・まだ生きたいのよー・・・体おこしてよー・・・」
いつもは気丈な母だったのに、この時はうなされながらも子供の様にねだりました。
酸素マスクも尿カテーテル(管)も嫌がり、最小限の処置がなされました。
私の上司である師長に電話で状況を伝え、最期まで傍についていてあげなさいと
おっしゃってくださいました。
それまでは勤務をお休みするように、と。
頭が上がりませんでした。

まだ生きたい。
もっと生きたい。
どんなに体がつらくても、生きたい。
まだ死にたくない。
危篤と言われた母は、その後約1週間も頑張りました。
徐々に言葉も出なくなり、体を常に震わせる状況になりました。
それでも常に誰かが傍にいられるように、父と交代で泊まりました。

母が5年前からお世話になっていた看護師のMさんが、常に母と私達を気遣って
下さいました。
「人の事ばかり気を遣われる方だったのよ、お母様。
 入院中でも、自分はいつも大丈夫だからっておっしゃっていたのよ。
 人に迷惑をかけたくないからって・・・。いつもそうお話されていたんですよ」
途切れ途切れに入院していた患者さんの事を、看護師は実によく看ているのだと
Mさんの言動一つ一つに感じる事が出来ました。
またMさんは私の出身看護短大と姉妹校出身だった事もあり、さらに親近感を増しました。

12月中旬に入ったある日の夜。
家族みんなが母を囲み、いつも家にいた時のように一緒に見守っていました。
父、妹、姉夫婦、そして私達夫婦。
この日は私達夫婦が泊まる番でした。
夜遅くなったので、もう帰って大丈夫だよと伝え私達は病室に残りました。
洋服を着替え、母の傍へ行くと今までの深い息づかいが消えかかりました。

そして目の前で、止まりました。

廊下に置いてあった母の心電図モニターをすぐさま見ると、平行線になっていました。
巡視をしていたMさんにすぐ伝え、当直医師に連絡。
しばらく後、死亡告知が私達夫婦にされました。
2001年12月中旬に入ったある日の夜。
あと半月で年明けを迎えるはずだった母の命の灯火が、56歳でひっそりと消えました。


nice!(0)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:GBA2005エッセイ

私が看護師になった理由、そしてその後 12 ~6年目;秋 [My Nursing Trajectory]

こんばんは、すがなです。
とうとう11月に入りました。だんだんと寒さが増してまいりました。
体調管理に一層気をつけなくちゃいけない時期になってきましたね。
今日の夜も少し冷えそうです。
合気道の授業の後、先生やSA(Student Assistant;学生の授業を手伝ってくれる
学生の事)の皆さんと一緒に学食でお決まりの食事会。
その後空を見上げると、空がとても澄んでいて星がきれいに輝いていました。
寒い夜に空を見上げると、母を思い出します。

出席するはずだった母のいない結婚式。
結婚式翌日も、ウエディングドレスを見せる事が出来なかったのを
私は非常に悔いていました。
翌日、実家へ行くと・・・
母の虚脱感は一層増していました。
抗がん剤と鎮痛のために使用している麻薬の副作用で、母はずっと吐き気がおさまらず
結婚式に出席していた父と妹のいない家の中で苦しんでいたといいます。
*麻薬(主にモルヒネ)の使用はがんの激烈な痛みを抑える作用がありますが、
 量をうまく調整すること・そして制吐剤を上手に使用することによって
 副作用が少なくすみます。
 しかし、母に処方されていた量は初回投与にしては少々量が多かったようです。

母にウエディング姿を見せたい。
旦那さんに相談し、実家で晴れ姿を見せようとお願いしたのです。
そして、貸衣装屋に電話をしてドレスとモーニングをもう1日貸してもらいました。

6畳の和室で横になっている、やつれきった母。
私達は、ウエディング姿で母の前に立ちました。

「・・・本当は、結婚式に出たかったんよ・・・!」
私達の姿を母が見るや、嗚咽と共に母が言いました。
壁を見ると、しわの無い紋付の和服が掛けられていました。
私達の数倍も、数十倍も、結婚式に一緒に参加できなかった事を
母は悔いていたのです。

結婚式場で、あの美しく咲く花々を見てもらいたかった。
私の手から、母へ手渡されるはずだった花。
旦那さんが大切にとっておいてくれた、私のブーケから一部取り出したブートニア。
*ブートニア;式中に新郎が新婦にブーケを手渡した後、今度は新婦から新郎へ
        渡されたブーケの中にある花を新郎の胸ポケットに差す儀式があります。
        その一摘みの花の事をブートニアと言います。
そのブートニアを、旦那さんから母へ手渡してくれたのです。
どんなに母が喜んだ事か。

涙が、止まりませんでした。







nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:GBA2005エッセイ

私が看護師になった理由、そしてその後 11 ~6年目;初秋 [My Nursing Trajectory]

こんにちは、すがなです。
とうとう10回シリーズが延長戦に突入してまいりました。
とある看護師のつぶやき(ぼやき?)的なこのシリーズ。
本人としてはかなり真面目に綴っております。

リエゾンナースを目指す事に焦点を絞ったのが、看護師4年目の2001年頃。
それまではぼんやりと自分のこれからを考えておりました。
一度諦めた助産師への道を進むか、それともこのまま看護師を続けるか。
でもここでちょっとずつはっきりしてきました。

パワーハラスメントを受けて不本意ながらも大学病院を辞めた事。
新しい病院で出会った教科書には無い看護。
一般の人々の知らない患者さん達の本当の悩み。
日々の業務に追われてやりたい事が出来なくて自分達を責める看護師のみんな。
自分で歩いてきてやっと見つけた、自分らしい看護の道。
ここで道を変えるわけにはいかない。

そして同時期、旦那さんとの結婚が決まりました。
結婚式はこの年の9月下旬。
ホテルなどでのありきたりな結婚式は避けたかったため、私たちが選んだのは
六本木にあるお花屋さん。
ここは非常に美しいお花を取り揃えていることで有名。
ここなら一風変わった結婚式が出来ると思い、私達は選ぶことにしました。

しかしここで、重大な事態が発生しました。
母の健康を脅かしていたガンが、再々発したのです。

母は今まで、月に2回外来で化学療法を受け、さらに毎日抗ガン剤を内服。
身体の不調を訴えつつも自分の医療費を稼ぐために
近所の物流センターまでパートを続けていました。

今度は最悪でした。
ガン組織はリンパ節はおろか、肝臓にまで転移していたのです。
さらに、歩くたびに身体のいたるところを痛がる状況。
骨転移もしていたのでしょう。
とうとうこの年の8月、鎮痛剤としてペンタジン(麻薬に準じた痛み止め)の処方が始まりました。
私の結婚式には絶対出るよと、何度も話してくれた母。
しかし、ガンはそれを許してくれませんでした。

母はもともと体が強い方ではありませんでした。
新しい薬が始まると、強い吐き気や虚脱感にしばしば襲われていました。
ペンタジンもそのひとつでした。
疼痛コントロールのプロトコールでは、薬剤の量を少量から徐々に上げていくことに
なっています。
ペンタジンは痛みを解消してくれていた。
しかし、母にはごく少量でも強すぎたようです。
ガンと鎮痛剤の強すぎる副作用のために母は9月中旬に入院。
何を思ったのでしょうか、母の主治医はここでモルヒネをかぶせるように処方してきました。
MSコンチン30mg/3回×(30mgを3回に分けて投与する事。つまり一回量は30mg÷3回
=10mg)/日。ペンタジン内服はそのままです。

当然のことながら、痛みはゼロに限りなく近づきました。
しかし、モルヒネの重大な副作用として吐き気や便秘などの消化器症状が
母をどん底に突き落としました。
結婚式の3日前に、母は退院しました。
だけどそんな身体で、千葉から六本木まで来られるわけがありませんでした。


「○○ちゃん(私の名前)、このお花なんて名前かわかる?」
小さい頃、母とお買い物に行く時決まってこのセリフを聞いていました。
路傍に咲く花や樹、作物を指差しては私達姉妹に尋ねる母。
うちの小さいマンションのベランダに、いつもシャコバサボテンやフリージア、シクラメン、
クレマチス、ブルーベリー、ツツジ、アジサイ、ナンテンなど沢山の植木がありました。
全て母が大切に育てていました。
花が大好きな母に、花でいっぱいにした会場を見て欲しい。

季節の花で彩る事を約束してくれた式場のコーディネーターの方に、
病気の母がいつ来ても、いつ休めてもいいように、ゲストの皆さんと同じように
料理を楽しめるように最後のお願いをしました。

量は他のゲストよりも少なめにして欲しい事。
口当たりの良いスープやテリーヌなどを出してもらえないかという事。
肉料理では食べられないかもしれないので、臭いの少ない魚料理にして欲しい事。
もしかしたら、花の香りのために吐き気を催し倒れてしまうかもしれないので
横になって休めるよう会場のすぐ横にベッドを用意して欲しい事。
そして、母はガンの終末期に限りなく近い事。
これらを伝え、コーディネーターさんも協力してくださいました。

そして2001年9月22日の結婚式当日。
既に新居にいた私達は、母が来られるか否かを知らずに朝早く会場へ出発。
その数時間後、父と妹から母が出席できない事を知りました。

晴れの姿を、会場で見せられませんでした。


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:GBA2005エッセイ
前の10件 | - My Nursing Trajectory ブログトップ
メッセージを送る

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。